おばあちゃんとの最期の夜 「さよなら」じゃなく「ありがとう」を
2019年1月25日 未明
大好きなひろこおばあちゃんが天国へ行きました。
みなさんにとっておばあちゃんとはどのような存在でしょうか?
物心ついたころにはおばあちゃんはすでにいなかったという人もいますよね。
私はとてもありがたいことに父と母の両家にとっての初孫でした。
父も母も三人兄弟の真ん中で他の兄弟よりも早い結婚だったので、私はおばあちゃんも既に亡くなっているおじいちゃんとも思い出がたくさんありました。
今回は母方のほうのおばあちゃんです。
ひろこおばあちゃんの私の眼に映る記憶…
忘れたくないのでここに書き留めておきます。
1.思い出ドリンク
これは間違いなくただ一つ。
『オロナミンC』です!!
ひろこおばあちゃんはオロナミンCを健康ドリンクだと思っていました。
会いに行ったら必ず『オロナミンC』を最初に出してきてくれます。
そして帰りに1ケース持って帰りなさいと10本入りをくれました。
台所の扉の中にはいつもケース買いのオロナミンCがストックされていました。
そしてだんだん私は大きくなるに連れ、オロナミンCが健康ドリンクではないことを知りました。
でもひろこおばあちゃんは飲ませたくて仕方がありません。
いつだって常温のオロナミンCを飲むのがおばあちゃん孝行だと思って飲み続けたドリンクです。
2.思い出お風呂
ひろこおばあちゃんの家は昔は薪でお湯を沸かすお風呂でした。
私は小さい頃からトトロみたいと薪を燃やすお手伝いをするのが好きでした。
ひろこおばあちゃんは焼き芋が大好きで薪を炊いてる時に焼き芋も一緒に焼いていることもありました。
そして時々今夜は『田中温泉』に行こうと言いました。
おばあちゃんの家から30分くらいのところにある温泉というより銭湯です。
まだ幼かった私ですがここでサウナを覚え、大人の真似事をして水風呂に浸かったりしました。
今は全然入らないけど。
そしてお風呂あがりにアイスクリームを買ってもらうのが定番コース。
私がアイスクリームのショーケースから選ぶのはいつも『おとぼけくん』という
棒状で半分がチョコ味、半分がバニラ味になってるアイス。
私はこのアイスが食べたくて
「田中温泉行こうか?」と言うひろこおばあちゃんの言葉が好きでした。
3.思い出お土産
まだおじいちゃんが生きてた頃(おじいちゃんもおばあちゃん以上に優しかった)おじいちゃんが競馬が好きで、私の住む地域の競馬場に毎週のように通っていました。
もちろんひろこおばあちゃんも一緒にうちまで遊びにきてくれました。
その時必ずお土産として持ってきてくれていたのは『ふ〜らんのたこ焼き』でした。
ここのたこ焼きはタコが本当に大きくて、さらにだしの効いた生地も美味しくて絶品でした。
おじいちゃんの車が見えたら『ふ〜らんのたこ焼き』と喜んでいたのを覚えています。
4.思い出ごはん
ひろこおばあちゃんは小さい頃から会いに行くと必ず「ジョイフルいこうよ」と言っていました。
ジョイフルとはおばあちゃんの家からほど近くのファミレスのことです。
一緒にご飯が食べたいといつも里帰りをした家族を誘ってジョイフルに行きたがりました。
ひろこおばあちゃんはただ家族揃ってごはんを食べることに喜びを感じていました。
必ずお会計の時は私に財布を渡して、そこから出すようにと言われてました。
そしていつも「お腹になった?」と聞いてきます。
私もよく人に聞くのですがこれって共通語じゃないんですね、「お腹いっぱいになった?」って言う意味で使うんですが、これはひろこおばあちゃんの造語だったんです。
5、思い出おこづかい
ひろこおばあちゃんは地元から車で30分くらいのところに住んでいて、小さな時から月2回ほどは里帰りをしていました。
そして小学生くらいの時から会うたびにお小遣いをくれました。
だいたい決まって帰りがけの車に乗り込もうとした時に、「お母さんには内緒よ」といって千円札を握り締められました。
私と妹に一枚ずつ、子供ながらに時々断るんですが受け取るまでねじ伏せられます。
そしてもちろん母にもバレていました。
ひろこおばあちゃんは決して裕福な生活をするほど稼いではいませんでした。
母によく聞いていたのは堅実で自分のためにお金を使うところはほとんど見たことないと。
若い頃から力仕事をして先に残る子供たちや孫たちに残しておけるように一生懸命働いていました。
6、おじいちゃんの介護
先に他界してしまったおじいちゃんは長い間【がん】で病気療養をしていました。
色んな病院に転院して最後5年とかはずっと病院生活でした。
そんなおじいちゃんの側を片時も離れず介護をしたのはひろこおばあちゃんでした。
片道2時間以上電車でかかる病院にも入院しているおじいちゃんのために一週間に何度も通っていました。
最後おじいちゃんが亡くなった時、ひろこおばあちゃんはずっとずーっと泣き続けました。
誰かが隣で支えてあげないと倒れそうなくらいに「父さん…寂しい」と泣き続けました。
私は自分より大きなひろこおばあちゃんの手を握り肩をさすってなるべく側にいました。
今回遺影の写真などを探さなくてはいけなくて、アルバムを漁っているとおじいちゃんの葬儀の写真が出てきました。
本当にどの写真に写るひろこおばあちゃんも涙を流している写真ばかりでした。
ひろこおばあちゃんはおじいちゃんのことが本当に大好きで側で介護をすることが生きがいだったのです。
おじいちゃんが亡くなってからは
「父さん私も連れてって…」と弱っている時期もあり心配したものです。
すっかり弱ったひろこおばあちゃんでしたが、おじいちゃんはちゃんと生かしてくれた。
ありがとうおじいちゃん。
7、思い出ペット
ひろこおばあちゃんはとにかく動物が大好きでした。母が幼い頃からあらゆる動物を飼っていたとは聞いていました。
うちもウサギや犬や猫など飼ってきましたが、ひろこおばあちゃんの愛情表現はすごかった。
子供の名前を呼ぶようにペットたちを読んでは手名付けます。
まるでムツゴロウさんのように生き物に愛情深かったひろこおばあちゃん。
生前おじいちゃんとおばあちゃんの運動の為に2人の元にジローという犬が来ました。
健康的で本当に可愛いミックス犬。
おじいちゃんが先に他界してからもジローがいたからひろこおばあちゃんは生きてこれたんだと思います。
そんなジローにも最後はきます。犬は人間より寿命がずっと短いですからね。
最後はひろこおばあちゃんがずっと抱きかかえて天国に行ったそうです。
ひろこおばあちゃんはおじいちゃんのこともジローのことも寂しい思いをさせないように、めいいっぱいの愛を注いで、最期の時を見送りました。
やっぱり最後は女の人が強いなぁと思うのは二人のおばあちゃんを見てきたからだと思います。
8、入退院を繰り返す日々
そんなひろこおばあちゃんも、もともと糖尿病もあり【がん】も見つかりました。
それからは家と病院の生活を行ったり来たり。
もう10年近く病気療養をしました。
1人で生活することが困難になったひろこおばあちゃん。古い母屋を建て直して母の妹夫婦が同居することになりました。
最初は頑なに家を壊したがらなかったひろこおばあちゃんでしたが、昔の家は寒いし広いし、段差は多いし生活するには困難でした。
そこで最後は受け入れ新しい住居を建て直したのです。
それでも家に入れる期間はあまり長くはありませんでした。私といるときにいきなり意識を失って痙攣を起こし救急車を呼んだこともあります。
足をふらつかせてストーブに座り込んで大やけどをしたり、散歩中に派手にこけて大けがをしたり。
ひろこおばあちゃんは体が弱っているのに、ゆっくり休むということを知らない人でした。
時間があるなら家族のために家事を手伝ったり、お芝居を観にいったり、私もおばあちゃんになったらこういうタイプなのかなと思います。
私が地元を離れて暮らすようになりましたが、母がお見舞いに行く度に「みーちゃん(親戚はみな私をそう呼びます)はいつ帰ってくる?」
「いい人は見つかったのか?」「みーちゃんの赤ちゃんを見ないと逝けない」と口癖のように言っていたそうです。
そしていつも病室の仲間たちに私のことを「出来のいい孫」と自慢していたそうです。
私も半年に一度は必ず地元に帰り少し離れたひろこおばあちゃんに会いに行っていました。
だいたいトボけた顔をして「あら?みーちゃんか」と決まって言うんです。
私はおばあちゃんと話すときは手を握って会話をします。
耳もすっかり遠くなり、少し私のこともわからなくなるようになってきたので、同じ話を何度も何度も話します。
ひろこおばあちゃんはいつもとても嬉しそうにしてくれました。
そして「また帰っておいで」と言ってくれていました。
最後にあったのは秋のはじめ。
もうだれが誰かあまりわからなくなっていました。
でも私が面会に行った日は体調もよかったようで「あー…みーちゃんか」と言ってくれました。
もうほとんど会話ができない状態だったそうですが、私のことをわかってくれたんです。
私はその時ひろこおばあちゃんのお着替えを手伝いました。
すっかり痩せてしまった体、朦朧とする意識、そんなひろこおばあちゃんを見て、今回もちゃんと会いにきてよかったと心から思いました。
そしていつものように手を離す前も「またくるね」と笑顔で別れたのです。
9、最期のお正月
そして容体は良くなることはなく、いつでも覚悟しておくようにと度々話が上がりました。
家族は財産分与の話し合いも始めていました。
ドロドロした話し合いではなく、ひろこおばあちゃんの意思を尊重しようという形で。
そしてこのお正月はひろこおばあちゃんに外出の許可が出ました。
娘息子、孫(私以外)が集まって賑やかなお正月を過ごしたそうです。
ひろこおばあちゃんは本当に楽しそうに久々によく食べたそうです。
本当にこの会があってよかった、ひろこおばあちゃんがいつも嬉しそうにしてたのはみんなで食べるごはんです。
ずっと家に帰りたかった、でも帰る家がどこかも忘れかけていた、そんなひろこおばあちゃんは当たり前に帰る場所があったのです。
10、千の風になる
そしておばあちゃんが逝ってしまいました。
私は夜中に父からの電話で報告を受けたのですが、電話が鳴った途端、覚悟はしていました。
夜中だったのですが帰る準備しないと、職場に連絡入れたりシフト調整しないと、という気持ちで変に冷静で泣けずに眠りにつきました。
翌日空港で無事に機内に乗り込んだときに涙が溢れてきました。
「もうすぐ会える、待ってて。」
そしてひろこおばあちゃんの顔を見ましたが、何故か涙が出ず普通に話しかけていました。
「帰ってきたよ、あら?少しお化粧濃くない?」とか顔を触って肩を撫でました。
そして久々に会う親戚に元気に挨拶して周り楽しい夜を演じました。
母も笑ってばかりで全然泣きません。
気になって「お母さん大丈夫?」と話しかけると
「まだ泣いてなんかいられない」って。
いざという時、本当に母は強いんです。
自分のことより周りを優先して気配りをします。私も初孫としてはまだ泣いてはいけないと思いました。
翌日のお通夜
ひろこおばあちゃんが祭壇に運び込まれました。ここで遺影にスライドショーが流れ始めたんです。
その写真の中にはほとんど私が写っていました。
他の孫たちが嫉妬しないかというくらいに、ひろこおばあちゃんの目の先には私がいて、どれだけ愛されていたかが忘れていた幼い時期も含めて、わかってはいたものの心があったかくなり、もう溢れ出る涙を抑えることはできませんでした。
すぐにでもまだ思い出せる
ひろこおばあちゃんが私を呼ぶ声も、いたずら顔をして冗談を言う姿も、手の温もりも。
私は本当に恵まれていて、誰よりも長いあいだ大事に大事に愛されていました。
ひろこおばあちゃんの願いは生きてる間には叶えてあげられなかったけど、きっといつかひろこおばあちゃんから注いでもらった愛を繋いでいくから。
ひろこおばあちゃんの姿在るのは今日の夜が最期。
明日は亡き姿で千の風になります。
最期の夜は「さよなら」じゃなく「ありがとう」の言葉を。
きっと明日は母が泣き崩れてしまうから。
まぁいつも父が誰よりも強く母を愛し守ってくれているので大丈夫だと思うけど、
いつも辛い時に励ましてくれる母を今支えなくていつ支えますか?
私は長女で初孫である役目を全うしなくては。
ひろこおばあちゃんが幸せな最期でよかった。
あなたが守ってきた家族はみんな愛情に溢れていて、とても穏やかです。
安心して天国のおじいちゃんとジローに会いに行ってください。
また生まれ変わったら私を見つけてくださいね。
私のおばあちゃんでいてくれて本当にありがとう、ひろこおばあちゃん。